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No sign of the morning comin, I've been left in my own. ラバーソールは砕けない。 Like a Rainbow in the dark.
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 彼は彼である為に、戦い続けなければならなかった。一度、たった一度彼が彼であった為に、そうなってしまったが為に、彼は彼である事を義務付けられ、彼は彼である以外になくなってしまった。それ故に、彼は戦い続けなければいけなくなった。
俺が俺である為に、闘う事は必要なのだろうか。生きる事は闘う事であるから、俺も戦い続けなければならない、生きなければならないのは確かだ。この生きる云々は基本的に自由選択なので、闘わない事も可能ではあるが、今の所その選択肢を選ぶつもりは無い。そして、彼が言う「戦い続けなければならない」とはそういう事ではない。生きる上で、更に何かと戦い続けなければ、彼は彼でいられなくなると言う事だ。
今現在の俺の状況は、少なくとも闘争とかそういったものからは外れて、実に平穏な日々である。俺がこの日常の中で闘う相手は、精々空腹感と空っぽの冷蔵庫と、買い出しに行く面倒臭さ程度で、彼が闘っていたものの遥か足下にも及ばない。
俺の戦場、鉄火場は、まだ無い。既に立っているとしたら、それはあまりにも無自覚なのだろう。何時殺されても可笑しくはない。文句も言えない。そして俺の得物、武器は一体何なのだ。言葉、映像、感覚、右手、それらの実に曖昧な、武器として成立し得なさそうな物が傍にあるが、果たして本当にそうなのだろうか。明確な意思、疑問、回答、それらが見えている者、それらを知っている者が強いのは、そういった事により得ている武器や、タフネスなのだろう。俺が持っているとすれば、グロッキーになれど倒れないと言うだけの精神力か。
俺の言葉はエクリチュール(書き言葉)だ。恐らく、パロール(話し言葉)では機能しないのじゃないだろうか。それは俺の戦場が、鉄火場が、日常の中に無い事を指し示している。また、映像やイラスト、エクリチュールを生み出す右手も感覚も、日常生活の中では武器として機能しない、無用の長物である。精々がマスかいたり鼻糞ほじる程度の事しか出来ないのだから。
まぁ、例え今の俺がそんな大層な信念だとか意思だとかを持っていても、闘う為に闘う、生きる為に闘う上で、さらに何か他のものと闘う、死にたくないから闘う、等と抜かしている間は、怯えきった捨て犬の様に曇った目で、何が何であるかも判別出来ないだろうから、またそれも死に直結している。メランコリカーであるが故、だろうか。歪だ。
この歪さ、自分自身の歪さとは何処から来ているのか。己を己と認めぬ、欺瞞や怠慢等のそういった物からだろうか。否、自分自身の歪さ、愚かさは、物に対して無用な付加価値を否定しない事にあるだろう。記憶や記録、意義、意味などと言った、感傷でしかない戯れ言、無用の長物を信じて、有り難がり、捨てきれずにいる。ただ、その無用の長物があるからこそ、俺はグロッキーになれどダウンしないパンチドランカーになったボクサーみたいなのだ。そう、俺は俺自身が地べたに這いつくばっている事を我慢する事は出来ないし、リングの上に立っているか、そこに近いところ、目立っていなければ気が済まないのだ。愚かしさと、その愚かしさの自覚が、俺自身を相当歪な形にさせている。
その様な無用の長物、感傷でしかない戯れ言に支えられつつ生きる上で、生き様だとか生き方だとか、更に訳のわからん、まるで意味があるのかと思えるようなものが存在する。そんなものは風に吹かれれば変化する程度の、安いものでしかないが、何かと美しいそれを求めたがるのは、神に憧れる人間の性なのだろうか。そんなものにこだわると言う事は、それ以外の選択肢を消し、道を狭める事に他ならない。言ってしまえば、何も出来なくなる。
その歪さ、醜さを自覚しながら、またそれを捨てる選択肢がある事に気づきながらも、それを出来ずにいる俺は、まさに夕闇に立つ人間なのだろう。どっちがどっちかもわからぬが、実に中途半端な、卑怯者の位置に立っている。どっちにでも転べる、保身的で狡いやり方だ。しかし、わかっていても、俺はここでしか立っている事は出来ないと思う。そう思う事で、そこに立ち続ける選択をしているのだろうと言う事も、大体察しがついている。中2病丸出しでも、何でも構わない。どちらかに転び、この立場を失う事に、大きな畏れを感じている。
そうまでしてここに立っている意味は何なのか。得られるのは、安い快感と錆び付いたヒロイズム、醜い自己満足や腐った優越感等の、どれも見るに耐えない悪趣味なものでしかない。それを自虐的に見て面白がっているのが、せめてもの救いかも知れない。面白さを見いだせるだけ、まだマシなのだろう。それが判断基準になるだそうり、活力源にもなりうるのだろうから。
俺はここでこうして立っている為に、そうでない自分、そうであろうとしない自分と闘っているのかも知れない。だとすれば俺は既に闘っているし、逃げ出そうとする自分を認めつつ、それらを倒すのに必要なのは、メランコリック(憂鬱)とエクリチュール(書き言葉)と、それを生み出す感覚と右手なのだろう。俺がここを望む以上、俺は俺である為に戦い続けなければならないのだろう。それは義務でも何でも無く、ただの「選択肢」でしかない。そう、たかが人生と言うゲームの選択肢なのだ。そうカリカリする事もない。

あぁ、何だ。結論っぽいの出たじゃん。よかったー。次は、闘う上での対人関係における名目か?とか思ったが、基本的にあまり他人に頼らない(一人では生きて行けない自覚はあるものの、なかなか助けを求めない)性格故に、誰がどういう名目であるか等と考える必要が無いのかも知れない。先述の通り、俺の相手は俺でしか無いので、誰かを巻き込みたくないし、巻き込む訳にはいかない。ただ、こうやってエクリチュールを垂れ流す以上、ある程度の信用がなければ出来ない事だし、ある程度巻き込んでいる事になるのだけれどね。ただ、みんなは俺のオカンでも保母さんでも保護観察官でも何でも無い。基本的には傍観者であり部外者であり、それでいて救助者にもなりえる。
みんなが救済者になる為には、俺の戦場に呼び寄せる為の儀式みたいなのが必要なんだろう。それは俺が助けてくれ、と涙垂れ流して汚ぇツラで頼み倒す事なのだろう。それをせずに、読みにくいエクリチュールを垂れ流し、助けて欲しそうに方々を眺めている俺は、矢張り卑怯ものでしかない。狡い人間である。
何だ、こちらも結論が出たじゃないか。やれやれ、だな。まるでマテバの拳銃だ。最初だけダブルアクション、後はシングルアクションの拳銃。おまけに、照準が狂いやすくて、下手すりゃ明後日の方向に飛んで行くときている。全く、笑える冗談だぜ。
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