No sign of the morning comin,
I've been left in my own.
ラバーソールは砕けない。
Like a Rainbow in the dark.
×
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さっき、パソコンをベッドの上からガシャンしちまって、
画面が真っ黒になって驚いた。
薄っすらと、本当に薄っすらと画面が見える。
あぁ、やっちまった!
電源切って、しばらく放置して、もっかいつけてみると、
3秒だけ付いて消えた。ぎゃーす!
落ち着け。素数を数えろ。
前にもこんな事あったぞ。
えぇっと、どうしたっけな。
そうだ、とりあえずバッテリー抜いて再び入れてみよう。
ってやったら解決した。
かなり焦った。
***
思い出した。
いや、見た夢の話。
君はいつの間にかブログを始めていて、
その日の失敗や、成功について、一喜一憂しながら書いていた。
「今日は彼を怒らせてしまった。
きっと、スプーンでカチンと音を立てたのがいけなかったんだ。」
と書いてあったのが記憶に残っている。
重くのしかかった言葉。
「この人となら、一緒にいられるかも知れないと思ってたのに。」
そうだよなァ、そういう事もそろそろ視野に入ってくるよなァ。
そりゃぁね、祝福するよ。
それでも、ちょっと重いパンチだったなぁ(苦笑
別に、それで泣いたんじゃないんだけどね。
***
きっといつか小さなアパートの二回のベランダから
この世で最も醜い青と橙の冷たいグラデーションを眺めながら
冷え切った珈琲を流し込んで
ゆっくりとベッドに沈む
とても美しいその一連の仕草は
シーツにくっきりと形と体温を残して
もう殆ど見えなくなった夕陽にそっと溶け込んでいく
薄紫色の煙と混ざりながら
ゆっくりと溶け込んでいく
***
21グラムと言う鬱映画を見た。
大分前に、中吊りか何かで見て興味はあったんんだけど、
そん時はサイコホラーか何かと思ってたのね。
そんで借りてみたら、凄い鬱映画でやんの。
もうバッチリ憂鬱ですよ。
死んだ時に21グラム軽くなるとか、本当にどうでもいい。
みんな平等に21グラム軽くなる=みんな平等
っていうのはどう考えてもオカシイ。
死ぬという事が平等に与えられているのは、周知の事実だ。
中学生でもわかる事だ。
この俺でさえ中学ん時にはわかってた。
もし死んだ瞬間に罪から解き放たれるのなら、
人々は21グラムの平等な罪を抱えているということになる。
大体、7大罪は犯しているのだから、それぞれ3グラムか。
笑えるよな。
さて。
もし仮に、病気によって私があとどれくらいで死ぬのか知ったら、
私にはいく所が三つ、ないし四つある。
最後の一箇所は、本当に行けるかどうか知らないけれど、
とりあえず三つ、ある。
そうして三つないし四つの場所に向かい、
用件を済ませるだろう。何としてでも。
そうしたら、僕はどうするだろう。
彼を、彼らを、殺そうとしに行くのだろうか。
映画の彼は、何に震え、怯えたのか。
罪深さか、それともやはり死ぬ事への恐怖か。
両方?どちらがより大きなウェートを占める?
後悔する?何を?どこから?どれくらい?
もし僕が彼(ら)を殺そうとしに行ったとしよう。
僕は彼(ら)の頭に、ナイフであれ鈍器であれ拳銃であれつきつけ、
彼(ら)を、後悔させてどうする?
殺してどうるす?
そう、残っているジョーカーを切るしかないだろう。
映画の中の彼らもまた、「ヒミズ」風に言えば、
「おまけ」を手に入れたのだと俺は思っている。
制限があったり、なかったりするけれどね。
私は、その「おまけ」を入手したとしても、
きっと一年なんて到底持たないだろう。
さっさとジョーカーを切るだろうね。
さて、そこで現れるのが茶沢さんだ。
全てを許してくれる存在、と言うのがいる。
罪と罰にも出てきたね。
全ての罪を本人から聞かされて知り、
それでも尚、罪を償った上で、その人を許せる人がいる。
僕には誰がそうであるかは、まだわからない。
心当たりは3人いる。
3人もいれば十分であろう。
誰が本当に、そうなるかはわからないけれど、ね。
ラスコーリニコフは罪を償う道を選んだ。
住田君はジョーカーを切ってしまった。
彼は少しの希望を見出したにも関わらず、
己のどす黒い「怪物」には抗えず、
「どうしても決まっている事」に従った。
俺はどうなるのだろう。
いや、おそらくありえない事を考えても仕方無いのだろうが、
非常に興味があるのだ。
俺は、どうなる。
罪の意識に耐えて、償い、また生活をするのか。
それとも、耐え切れずにジョーカーを切るのか。
何を思うのだろう。
「明日を生きられないやつがいる。その分今日を一生懸命生きる。」
と言う言葉を、俺はあまり信じていない。
一生懸命生きる日もあるだろう。
ただそれを、365日、何回もの365日の間、
一生懸命であり続けられるか?
それは果たして自分の為なのか?
一日も気を抜かずに、生きていけるとは思っていない。
その瞬間に、明日を生きられぬ誰かを裏切った気にならぬか?
だから、俺はそう言わない。
それは怠惰な自分に対する逃げ道を残す事でもある。
その自覚はある。私は怠惰な人間である。
すぐにジョーカーをちらつかせるような、情けない人間である。
だからこそ、そんな事は言えないのだ。
ただ、もし俺が不慮の事故で死んで、
その心臓で、肺で、肝臓で、胃袋で、腎臓で、手足で、角膜で、
誰かが、何かを得られるのなら、俺は喜んで提供するよ。
時々思う事がある。
愛する誰かが先に死んでしまったら、
もういっそ、形見なんかじゃなく、
体の一部を移植してしまえばいいって。
そうすれば、自分が死ぬ時も一緒にいられるじゃないか。
もう生きている間でもいい。
そうすると、一人で死ぬ事の恐怖よりも、
誰かと一緒にいる安心感により、生きようとする事を、
諦めやすいかも知れない。
「死にたくない」と言うことは、未練があるからだよね。
「愛するあいつに会いたい」「まだやれてない事がある」
そういう一連の願いの中の、
「あいつにあいたい」が自分の体の移植により、
もう既にかなえられている場合、安心しちまうかもね。
俺なんかそうだろうよ。
じゃあ生きてる間はやめた方がいいな。おう。
何故彼は、最後の最後に自害を諦めたのだろう。
何故、他人に殺させようとしたのだろう。
罪の深さに、己で決着をつける事が出来なかったのか。
いや、違うのだろう。
あれは彼なりの、最後に出来る「人助け」だったんだろう。
自分を殺させる事で、相手の気が済むのなら…と言う事で、
彼は進んで自らを殺させにいった。裏目に出たけど。
さて、俺はその時どうするんだろうね。
興味が尽きないよ。
画面が真っ黒になって驚いた。
薄っすらと、本当に薄っすらと画面が見える。
あぁ、やっちまった!
電源切って、しばらく放置して、もっかいつけてみると、
3秒だけ付いて消えた。ぎゃーす!
落ち着け。素数を数えろ。
前にもこんな事あったぞ。
えぇっと、どうしたっけな。
そうだ、とりあえずバッテリー抜いて再び入れてみよう。
ってやったら解決した。
かなり焦った。
***
思い出した。
いや、見た夢の話。
君はいつの間にかブログを始めていて、
その日の失敗や、成功について、一喜一憂しながら書いていた。
「今日は彼を怒らせてしまった。
きっと、スプーンでカチンと音を立てたのがいけなかったんだ。」
と書いてあったのが記憶に残っている。
重くのしかかった言葉。
「この人となら、一緒にいられるかも知れないと思ってたのに。」
そうだよなァ、そういう事もそろそろ視野に入ってくるよなァ。
そりゃぁね、祝福するよ。
それでも、ちょっと重いパンチだったなぁ(苦笑
別に、それで泣いたんじゃないんだけどね。
***
きっといつか小さなアパートの二回のベランダから
この世で最も醜い青と橙の冷たいグラデーションを眺めながら
冷え切った珈琲を流し込んで
ゆっくりとベッドに沈む
とても美しいその一連の仕草は
シーツにくっきりと形と体温を残して
もう殆ど見えなくなった夕陽にそっと溶け込んでいく
薄紫色の煙と混ざりながら
ゆっくりと溶け込んでいく
***
21グラムと言う鬱映画を見た。
大分前に、中吊りか何かで見て興味はあったんんだけど、
そん時はサイコホラーか何かと思ってたのね。
そんで借りてみたら、凄い鬱映画でやんの。
もうバッチリ憂鬱ですよ。
死んだ時に21グラム軽くなるとか、本当にどうでもいい。
みんな平等に21グラム軽くなる=みんな平等
っていうのはどう考えてもオカシイ。
死ぬという事が平等に与えられているのは、周知の事実だ。
中学生でもわかる事だ。
この俺でさえ中学ん時にはわかってた。
もし死んだ瞬間に罪から解き放たれるのなら、
人々は21グラムの平等な罪を抱えているということになる。
大体、7大罪は犯しているのだから、それぞれ3グラムか。
笑えるよな。
さて。
もし仮に、病気によって私があとどれくらいで死ぬのか知ったら、
私にはいく所が三つ、ないし四つある。
最後の一箇所は、本当に行けるかどうか知らないけれど、
とりあえず三つ、ある。
そうして三つないし四つの場所に向かい、
用件を済ませるだろう。何としてでも。
そうしたら、僕はどうするだろう。
彼を、彼らを、殺そうとしに行くのだろうか。
映画の彼は、何に震え、怯えたのか。
罪深さか、それともやはり死ぬ事への恐怖か。
両方?どちらがより大きなウェートを占める?
後悔する?何を?どこから?どれくらい?
もし僕が彼(ら)を殺そうとしに行ったとしよう。
僕は彼(ら)の頭に、ナイフであれ鈍器であれ拳銃であれつきつけ、
彼(ら)を、後悔させてどうする?
殺してどうるす?
そう、残っているジョーカーを切るしかないだろう。
映画の中の彼らもまた、「ヒミズ」風に言えば、
「おまけ」を手に入れたのだと俺は思っている。
制限があったり、なかったりするけれどね。
私は、その「おまけ」を入手したとしても、
きっと一年なんて到底持たないだろう。
さっさとジョーカーを切るだろうね。
さて、そこで現れるのが茶沢さんだ。
全てを許してくれる存在、と言うのがいる。
罪と罰にも出てきたね。
全ての罪を本人から聞かされて知り、
それでも尚、罪を償った上で、その人を許せる人がいる。
僕には誰がそうであるかは、まだわからない。
心当たりは3人いる。
3人もいれば十分であろう。
誰が本当に、そうなるかはわからないけれど、ね。
ラスコーリニコフは罪を償う道を選んだ。
住田君はジョーカーを切ってしまった。
彼は少しの希望を見出したにも関わらず、
己のどす黒い「怪物」には抗えず、
「どうしても決まっている事」に従った。
俺はどうなるのだろう。
いや、おそらくありえない事を考えても仕方無いのだろうが、
非常に興味があるのだ。
俺は、どうなる。
罪の意識に耐えて、償い、また生活をするのか。
それとも、耐え切れずにジョーカーを切るのか。
何を思うのだろう。
「明日を生きられないやつがいる。その分今日を一生懸命生きる。」
と言う言葉を、俺はあまり信じていない。
一生懸命生きる日もあるだろう。
ただそれを、365日、何回もの365日の間、
一生懸命であり続けられるか?
それは果たして自分の為なのか?
一日も気を抜かずに、生きていけるとは思っていない。
その瞬間に、明日を生きられぬ誰かを裏切った気にならぬか?
だから、俺はそう言わない。
それは怠惰な自分に対する逃げ道を残す事でもある。
その自覚はある。私は怠惰な人間である。
すぐにジョーカーをちらつかせるような、情けない人間である。
だからこそ、そんな事は言えないのだ。
ただ、もし俺が不慮の事故で死んで、
その心臓で、肺で、肝臓で、胃袋で、腎臓で、手足で、角膜で、
誰かが、何かを得られるのなら、俺は喜んで提供するよ。
時々思う事がある。
愛する誰かが先に死んでしまったら、
もういっそ、形見なんかじゃなく、
体の一部を移植してしまえばいいって。
そうすれば、自分が死ぬ時も一緒にいられるじゃないか。
もう生きている間でもいい。
そうすると、一人で死ぬ事の恐怖よりも、
誰かと一緒にいる安心感により、生きようとする事を、
諦めやすいかも知れない。
「死にたくない」と言うことは、未練があるからだよね。
「愛するあいつに会いたい」「まだやれてない事がある」
そういう一連の願いの中の、
「あいつにあいたい」が自分の体の移植により、
もう既にかなえられている場合、安心しちまうかもね。
俺なんかそうだろうよ。
じゃあ生きてる間はやめた方がいいな。おう。
何故彼は、最後の最後に自害を諦めたのだろう。
何故、他人に殺させようとしたのだろう。
罪の深さに、己で決着をつける事が出来なかったのか。
いや、違うのだろう。
あれは彼なりの、最後に出来る「人助け」だったんだろう。
自分を殺させる事で、相手の気が済むのなら…と言う事で、
彼は進んで自らを殺させにいった。裏目に出たけど。
さて、俺はその時どうするんだろうね。
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HN:
ニジムラ リョー
年齢:
39
性別:
男性
誕生日:
1985/01/28
自己紹介:
この男、誇大妄想家につき。
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