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重い夢ばかり見ていた。
みんなが日本語を使っているのに、
俺には何の事だかわからない。
ミクシーでも、現代詩でも、みんなの日本語が、
まったく意味を成さない文字の羅列なのに、
みんなは平気でコミュニケイトしている。
凄まじい恐怖に目が覚める。
幾度と無く続く重たい夢は、脳味噌を疲弊させ、
あまり寝た気にはならないのだが、体はそれ以上の睡眠を拒否した。
ふぅ。疲れる。
***
友人某の為(と言いつつ己)の練習。
犯罪無き社会は、成立しうるのか?との問いに対して、
答えはNOである、と俺は思っている。
人は何故、罪を犯すのだろか。
小犯罪から大罪まで色々あるが、とにかく人は罪を犯す。
大体が、「幸福」を欲する為であると思われる。
精神的であれ肉体的であれ金銭的であれ、
何らかの「幸福」に到達する為の、「手段」であると思っている。
無論、間違った手段である事に間違いは無い。
だがしかし、その間違った手段を選ぶことで、
堅実な道よりも早く、大きな「幸福」を掴める場合が多い。
強盗などはその最たる例だろう。
間違った手段ではあるが、大金を手にする事が出来る。
違法営業などもそうだろう。
その「幸福」の為に、人は罪を犯す。
「安心」と言い換えても良いかも知れない。
人は「安心」を求める。
「安心」を得る為に、色々な事をする。
ところで、ジョジョ六部において、神父Pは、
「悪とは人類全体の幸福である」と言っている。
凄く端的に、だけど。
人類の「幸福」の為に、全ての犠牲が正当化される。
犠牲の上に「幸福」と「安心」は成り立っているのは事実である。
不幸の起源は、人類が不幸に対して覚悟が出来ていないからでる。
とも神父Pは言うのだが、全くその通りである。
故に、神父は世界を一巡させ、未来を既知のものとし、
覚悟をさせた後に、人は幸福になれる、と言うのだ。
ふむ。
さて、その間違った手段によって幸福を得ようとする際、
必ず何らかの犠牲が生まれる。その犠牲の上に幸福は成り立つ。
その犠牲に耐え切れずにいると、ラスコーリニコフみたくなる。
正当化しきれず、罪の呵責に悶々とし続ける。
まぁダラダラと書いたけど、要するに「幸福」を求めるから、
罪を犯すんであって、幸福がなければいい。
知らなければいい。甘受すればいいのであるが、それも難しい。
何かを欲する事は間違いなくあるのだから。
それこそ、金銭的であれ肉体的であれ精神的であれ、
何かを欲する心を抑える事は非常に難しい。
俺には無理だ。
金も女も単位も欲しい。仕事も安牌も欲しい。
欲しいのだ。
幸福を求めている。何らかの犠牲が付きまとう。
しかしこんな事言ってると、生きてるだけで罪である。
罪だもの。不惑原罪、そこら辺はどうでもいい。
ジョジョ6、7とキリスト(神)絡みの話になっているが、
さてどうしたものか。
話がそれた。
結論を言えば、
「人類が幸福を求めなくなった時に、
犯罪無き社会は成立しうる」と思うのだ。
***
じゃあ友達の家でマメまいて恵方巻喰ってくる。
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